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34話 親切な人々

last update Last Updated: 2025-02-17 20:02:00

 午後4時半――

イレーネは『デリア』のホームに降り立った。

「う~ん……快適な汽車の旅だったわ。やっぱり二等車両は座り心地が違うわね。切符を手配してくれたリカルド様に感謝しないと」

帽子をかぶり直したイレーネは、ホームに停車している汽車を見て嬉しそうに笑みを浮かべる。

「でもこんな贅沢、私のような者には身の丈が合わないわね。1年後、ルシアン様と離婚したら質素倹約に励まなくちゃ」

結婚生活が始まる前から、既に離婚後のことを見据えていたのだ。

「さて、では行きましょう」

イレーネはキャリーケースを引きずりながら、改札を目指して歩き始めた。

**

「う~ん……迂闊だったわ……そう言えばこの駅は階段を上らないと、外に出られなかったのよね……」

じっと階段を見上げるイレーネ。手元には二つのキャリーケース。

とてもイレーネの細腕では二つの荷物を持って、上ることは出来ない。

「……仕方ないわ。一つ残しておいて、階段を上るしかないわね……」

ため息をついたとき、背後で声をかけられた。

「お困りですか? よければ荷物をお持ちしますよ?」

「え?」

その声に振り向くと、白髪交じりの男性駅員が立っていた。

「よろしいのですか?」

「ええ。ちょうど駅員室に戻るところだったので」

そして男性駅員はキャリーケースを2つとも、持ったのでイレーネは慌てた。

「あ、あの。一つだけで大丈夫ですので。後の一つは自分で持ちます」

「いいえ、見たところ女性が持つには大きすぎる荷物ですよ。私が持つのでどうぞ階段を登って下さい」

「そうですか? それではお言葉に甘えて……ご親切にありがとうございます」

イレーネは礼を述べると、階段を登っていく。そこを後ろからキャリーケースを持った駅員がついていった。

「荷物を運んで頂き、ありがとうございました」

階段を登り終えると、イレーネは礼を述べた。

「いいえ、お役に立てて良かったです」

「あの……図々しいお願いとは思いますが……もう一つ、お願いしてもよろしいでしょうか?」

「はい、何でしょう?」

「電話をお借りしても良いでしょうか?」

イレーネは恥ずかしそうに駅員に尋ねた――

****

 駅を出ると、イレーネはため息をついた。

「それにしても、リカルド様が電話に出られなかったのは残念だったわ……というか、何故誰も電話に出なかったのかしら……?」

イレーネは何も知らなか
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     リカルドはとても焦っていた。(一体、あの状況は何なのだ……)自分で馬車を走らせ、リカルドはここまでやってきた。するとイレーネが警察官と共に見知らぬ青年と対峙している場面に遭遇したのだ。(何故イレーネさんは警察官と一緒にいるのだろう? それにあの青年は誰だ? 何やら問い詰められているようにも見える……とにかく、今は隠れていた方が良さそうだ)そう判断したリカルドは、大木の側に馬車を止めてると急いで身を隠して様子を伺っていたのだ。「おや? 帰って行くようだ」少しの間、見ていると青年はそのまま立ち去って行った。そしてイレーネと警察官は何やら話をしている。その姿は妙に親し気に見えた。(気さくなタイプの警察官なのかもしれないな……)そんなことを考えていると、警察官が自分の方を振り向いた。「……というわけで、そこの方。貴方もいい加減出てきたらどうですか?」(え!? バレていた……!? そ、そんな……!)しかし、相手は警察官。下手な行動は取れないと判断したリカルドは観念して木の陰から出てきた。「は、はい……」「まぁ! リカルド様ではありませんか? どうしてそんなところに隠れていたのですか? どうぞこちらへいらして下さい」イレーネが笑顔で呼びかける。「はい、イレーネさん」おっかなびっくり、リカルドは二人の前にやって来た。一方、驚いているのはケヴィンだった。「ひょっとして、お二人は知り合い同士なのですか?」「はい、そうです。こちらの方はリカルド・エイデン様。この家の家主さんです」イレーネは笑顔でケヴィンに紹介する。そう、イレーネから見ればリカルドはこの家の家主に該当するのだ。「え? 家主さんだったのですか!?」ケヴィンはリカルドを見つめる。「は、はい……そうです……」(家主? 確かに私はこの家の家主のような者だが……何故、ルシアン様の名前を出さないのだろう? ハッ! そういえば、お二人は世間を騙す為の結婚……つまり、偽装結婚をする関係だ。そして目の前にいるのは警察官。もしかして偽装結婚は犯罪に値するのだろうか? それでイレーネさんはルシアン様の名前を出さなかったのかもしれない!)心配性のリカルドは目まぐるしく考えを巡らせ、自分の中で結論付けた。「はい、私はイレーネさんにこの屋敷を貸している(今は)家主のリカルド・エイデンです」早

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    ――16時「大分、痛みがひいたみたいね」イレーネは立ち上がると歩いてみた。「これなら農作業用具を片付けられそうだわ」エプロンを身に着けている時。――コンコン突然部屋にノックの音が響き渡った。「あら? 誰かしら? もしかしてルシアン様かしら」イレーネは少しだけ足を引きずりながらへ向かうとドアアイを覗き込み、驚いた。「え? ケヴィンさん?」何と訪ねてきたのはケヴィンだったのだ。イレーネは慌てて扉を開けた。「いきなり訪ねてすみません、イレーネさん」ケヴィンはイレーネの姿を見ると笑みを浮かべた。「ケヴィンさん、一体どうなさったのですか? まだ制服姿ということはお仕事中ですよね?」「ええ、そうなのですが……イレーネさんの怪我が気になってしまって、訪ねてしまいました。大丈夫ですか?」「ええ。自分で手当をしたので大丈夫ですわ」イレーネは包帯を巻いた足を少しだけ上に上げてみせた。「そうでしたか……それなら良かったです。あの、実はコレを届けたかったのです」ケヴィンは恥ずかしそうに紙袋を差し出してきた。「あの、これは……?」躊躇いながら受け取るイレーネ。「はい、ドライレーズンです。確か、今夜はレーズンパンを作るつもりだと仰っていましたよね?」「まぁ……それでは、わざわざ買って持ってきて下さったのですか? それではすぐに代金を支払いますね」イレーネが部屋に取って返そうとした時。「あ! 待ってください!」突然呼び止められた。「どうかしましたか?」「イレーネさん。お金なんて結構ですよ」「ですが、それでは私の気持ちが収まりませんわ」「それでしたら……あの、もしよければ……今度イレーネさんが焼いたパンを僕にも分けていただけたら嬉しいです。僕がパンを好きなのは御存知ですよね?」「そうですね。それでは今、持ってきますね。レーズンを入れていないパンなら、もう焼いていたんです」「本当ですか? ありがとうございます」笑顔になるケヴィンを玄関に残し、イレーネは家の中へ入っていった。「どうもお待たせいたしました。どうぞ、ケヴィンさん」紙袋にパンを入れたイレーネがケヴィンの元へ戻って来ると、差し出した。「うわあ……パンの良い匂いがしますね。それにまだ温かい」「はい、30分ほど前に焼き上がったところですから」「ありがとうございます。味わっ

  • はじめまして、期間限定のお飾り妻です   122話 私が行ってきましょう

    「どうもありがとうございました」別宅の前に馬車が到着し、イレーネは馬車代を支払うと痛みを押さえて降り立った。「大丈夫ですか? お客様」男性御者が心配そうに声をかけてくる。「ええ、大丈夫です。ご心配頂きありがとうございます」「では、失礼します」互いに挨拶を交わすと馬車は走り去っていった。「……何だか痛みが酷くなってきたみたいだわ。早く治療しなくちゃ」痛む足を引きずりながら、イレーネは家の中へ入っていった――** 帰宅したイレーネは、湿布を作るために台所で材料を探していた。「え〜と、小麦粉にビネガーは……あ、あったわ」早速小麦粉をビネガーと混ぜて練り合わせると用意していたガーゼに塗ると、ガーゼを痛めた足首にそっとあてる。「つ、冷たい……でも我慢我慢」自分に言い聞かせ、包帯を巻きつけた。「……出来たわ。どうかしら?」早速イレーネは少しだけ歩いてみた。「だいぶ痛みは和らいだみたいね。やっぱりお祖父様直伝の湿布は効果があるわ」窓の外を見ると、そこには農作業用道具が畑の側に置かれている。「……こんな状態じゃなければ、マイスター家に戻っていたのだけれど……」買い物から帰宅後は、すぐに畑仕事が出来るように用具を出して出掛けてしまっていたのだ。「痛みがひいたら、片付けをしなくちゃ」イレーネはポツリと呟いた。****「今日もイレーネさんは別宅に泊まられるのですね」仕事をしているルシアンに紅茶を注ぎながらリカルドが尋ねた。「そうだ。……別宅という言い方をするな」ムッとした様子でルシアンがリカルドを見る。「それは失礼致しました」「全く……イレーネはあの家が好きなようだ。毎回楽しそうに行っているからな」「つまらなそうな顔をして出掛けられるより、余程良いではありませんか」リカルドの言葉に、ルシアンは呆れ顔になる。「あのなぁ、俺はそんなことを話しているんじゃない。……もしかして、あの場所には何かあるんじゃないだろうか?」「何かとは?」「それが分からないから、何かと言ってるんだろう?」「ルシアン様……」じっとリカルドはルシアンを見つめる。「な、何だ?」「本当に、イレーネさんのことを気にかけてらっしゃるのですねぇ?」「それは当然だろう? 何しろ彼女とは契約を結んだ婚約者の関係だからな。今月開催する任命式で、正式にイレーネ

  • はじめまして、期間限定のお飾り妻です   121話 イレーネとベアトリス

     イレーネがベアトリスをじっと見つめていた時。「サイン下さい!」突然イレーネの後ろにいた男性が前に進み出てきて、ぶつかってきた。「キャア!」小柄なイレーネはそのまま、前のめりに転んでしまった。はずみで持っていた買い物袋も地面に落ち、袋の中からリンゴがコロコロとベアトリスの足元に転がっていく。「まぁ! 大変!」ファンにサインをしていたベアトリスはリンゴを拾うと、イレーネに駆け寄ってきた。「大丈夫ですか?」イレーネに手を差し伸べるベアトリス。「は、はい……ご親切にありがとうございます」その手を借りてイレーネは立ち上がると、次にベアトリスはぶつかってきた男性を睨みつけた。「ちょっと! 貴方はレディにぶつかって転ばせてしまったのに、手を貸すどころか謝罪も出来ないのですか!?」「え? す、すみません!!」ベアトリスにサインをねだろうとした男性はオロオロしている。そんな男性を一瞥するとベアトリスはイレーネに笑みを浮かべた。「申し訳ございません。お詫びの印にサインをしてさしあげますわ。どれにすればよろしいですか?」「え? サ、サインですか!?」そんなつもりで並んでいなかったイレーネは当然戸惑い……ふと、閃いた。「あの、でしたらこのメモに書いていただけませんか?」イレーネは買い物メモをひっくり返して手渡した。「あら? これにですか?」怪訝そうな表情を浮かべるベアトリス。「はい、まさかこのような場所で大スターにお会いできるとは思ってもいなかったので他に持ち合わせがないのです。でも、額に入れて飾らせていただきます!」「まぁ。そこまで言って頂けるなんて嬉しいわ。ではこのメモにサインしましょう」ベアトリスはイレーネからメモを受け取ると、サラサラとサインをして手渡してきた。「はい、どうぞ」「ありがとうございます……一生の宝物にさせていただきますね」「フフフ。大げさな方ね」そのとき――「劇団員の皆様! お待たせ致しました! 迎えの馬車が到着いたしました!」スーツ姿の男性が大きな声で呼びかけてきた。「行こう、ベアトリス」そこへ黒髪の青年が現れて、ベアトリスに声をかけてきた。「そうね、カイン」そしてベアトリスはカインと呼んだ男性と共に、その場を去って行った。「あ〜あ……サインもらいそびれてしまった……」「やっぱりベアトリスは美

  • はじめまして、期間限定のお飾り妻です   120話 意外な場所で

     あの嵐の日から、早いもので3ヶ月が経過していた。イレーネは半月に一度は、リカルドから譲り受けた家に通うようになっていたのだった。「それでは、今日もあの家に行くつもりなのか?」朝食の席でルシアンがイレーネに尋ねる。「はい、行ってきます」笑顔で返事をするイレーネ。「だが、何もそんなに頻繁に行かなくても……」言葉をつまらせるルシアンにイレーネは理由を述べた。「あの家は空き家ですから、定期的に訪れて管理をしないと家の維持は難しいですから」「そうか……」正直に言うとルシアンは、イレーネにあまりあの家には通って欲しくは無かった。その理由はただ一つしかない。「心配しなくても大丈夫です。明日にはまた戻りますので」「……分かった。なら気をつけて行くといい」「はい、ルシアン様」イレーネは笑顔で返事をした。**** イレーネは今夜の食材を買うために、1人で町に出てきていた。「えっと……バターは買ったし……あ、そうだわ。ドライフルーツを買わなくちゃ。今夜はレーズンパンを作るんだったわ」買い物メモを確認すると、イレーネはポケットにしまった。「それにしても、今日の駅前は凄い人手ね。一体何があったのかしら?」駅前には大勢の人々が集結していた。しかも大騒ぎになっており、警察官たちまで警備にあたっている。「もしかして、有名人でも来ているのかしら?」好奇心旺盛なイレーネは、一度気になったものは確認してみなければならない性格をしている。「ドライフルーツは後で買えるものね……行ってみましょう」そしてイレーネは人だかりの方へ足を向けた。**「皆さん! 落ち着いて! 押さないで下さい!」「道を開けて下さい!」騒ぎの中心から大きな声が聞こえている。「サインして下さい!」中にはサインをねだる声まである。「え? サイン? もしかして有名人でも来ているのかしら?」イレーネは誰が来ているのか、見たくても人だかりが出来ているので確認することも出来ない。そのとき――「あれ? イレーネさんじゃありませんか!」不意に声をかけられた。「え?」驚いて振り向くと、警察官姿のケヴィンが自分を見つめている。「まぁ! ケヴィンさん、こんにちは。偶然ですわね」「こんにちは。もしかしてイレーネさん……見物に来たのですか?」「は、はい……。何事か興味があったの

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